西暦五十七年、漢王朝からわが国の古代国家へ印綬が授けられました。国宝である「漢倭奴國王」金印で、現存する日本最古の印章です。
印章が本格的に伝承されるのは七世紀も末頃のこと。
そして大宝律令(七〇一年)下で「官印」制度が定められ、日本の印章史の第一歩が刻まれました。やがて「私印」も発生して公家の間で用いられましたが、平安後期になると印章に代わって「花押(かおう)」が隆盛をみました。その後、室町時代に宋・元の文人印に倣った私印が武家の間で復活。
この系譜の印章は戦国武将たちにも受け継がれ、自らの権勢を示す“しるし”として広まっていったのです。
群雄割拠の戦国の世にあって、武将たちは自らの権勢を知らしめようと、趣向に富んだ印文の印章を用いました。武田氏は「龍の印」、上杉氏は「獅子の印」、北条氏は「虎の印」と、それぞれに個性あふれています。さて、この戦国乱世を治めたのが織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の「三英傑」。彼らにも天下に覇を示した“しるし”を見ることができます。天下統一の悲願を込めた信長の「天下布武」の印。関白に任じられた時の秀吉の「豊臣」の印、その勢威を示すために作らせた「天正長大判金」の刻印。家康が知行安堵の書状「朱印状」に押した印などです。
永禄十年(一五六七年)、信長が美濃・稲葉山城を攻め落とした後に造らせたのが、“天下に武を布く”悲願を込めた「天下布武」の印。この書状は永禄十一年に「知行を安堵する」という保証をしたもので、押印されているのは初代の印章である。
長浜市長浜城歴史博物館蔵
秀吉が自らの権勢を示すため、天正十六年(一五八八年)に京金工の後藤家に造らせた「天正長大判金」。表面に「拾両後藤」と“花押”の墨書きがあり、その上下左右に「丸枠に五三桐」の刻印が押され、印章でいう「証明」の役割を果たしている。
「家康」の自署の下に朱印を押した書状(朱印状)。下の書状は、慶長五年(一六〇〇年)に石清水八幡宮の外坊宛て「所領の安堵」を保証したもの。家康は初期には「福徳」など儒教的な文字を用いたが、やがて自分の名前の印を使うようになった。
下・慶長5年/1600年